父の入信について

劉貞   

漢譯:賴劉慶理譯 「父親的入信」

原載:《壹葉通訊》26  198410月   


本目停次郎、喜代夫妻

私の父本目停次郎重行は、安政3年12月12日に当時の江戸(東京)小川町に生まれました。祖父は親民、母は浅野氏、徳川幕府末期のどさくさの世に幼年時代を過しました。当時は皆幕府から禄をもらい、それで生活を立てていた時で、誰も食べる事だけは不自由いたしませんでした。然し大政奉還後、明治の初年頃は希望通りの仕事も少なく、従って一日の生活はさぞ苦労の多い事であったろうと想像されます。

大ぜいの子供の末子であった父はあまやかされて育ったらしく、成人後も少々わがままでがんこ一てつ、他人の言には余り耳をかさず、己のよしと思う所によってのみ行動していました。家庭でも父は「亭主関白、妻に対しても子女に対しても絶対の権をもって接しておりましたので、私の母などは父の前に在っては平身低頭、何事も仰せでもっともという態度で接していました。とはいうものの、子女に対して或時などやさしく、何事でもききとどけてくれた事もありました。思えば少し猫可愛がりと思えるふしもありました

富んだ境遇ではなく、子女の希望している事を全部満たして呉れた人ではありませんでした。子女に対して, 「お前たちは正と不正をよくわきまへる事、他人の迷惑になるやうな事は万万せぬ事、出来る事は自分でする事、不足があってもがまんが大切」。そんな事を口にしつつ、子女を見守って呉れていました。

宗教に関してははつきりした意見を示した事はなく、唯唯天皇第一、御先祖第二、お前たちはこの事を忘れると罰が当ると常日頃申しきかされました。 

この宗教に対して実に無関心の父の心に一大変化を与えた事がおこりました。今でも私の心にありありと焼きついて忘れる事の出来ない事実です。明治33年(1900)頃かと思はれます。夕食を終り涼みがてら、夕方の散歩へと出掛けました。父は私と姉と弟の幼かった私共三人を連れて、家を出て牛込神楽坂の上まで参りました。丁度そこに尾澤薬局があり、その店の前に一群の人だかりがあり、その中で楽隊が勇ましく奏され、群の中心に紺色の服をきた男の人が二三人、同じく紺色服をきた女の人もまじり、声高らかに勇ましいしかも心ひかれる歌賛美歌を歌っていました。当時三歳位であった私には何だかわかる筈もなく、私には歌われる曲と勇ましく奏される楽隊にひどく心をうわれました。眼鏡をかけた男の人が何事か話されました。私には何事であったか勿論覚えておりません。男の人は眼をとじ短く祈りました。再び楽隊と共に歌が歌われました。群衆の中の人々も歌いました。「イエス信ぜよ、イエス信ぜよ、信ずる者は誰も皆救われん」。路傍の伝道は終わりました。ふと私は父の眼に涙が宿っているのを見ました。他日私が父からきいた事は、この団体は日本救世軍の路傍集会である事、話された人は山室軍平先生であったそうです。 

この後父の心境に大変化がおこり、父は基督にしつかり捕らえられてしまっておりました。そして以後、父の行動は変わり、好きな酒も止め、牛込袋町に在った日本メソヂスト教会の求道者とまり、熱心に道を求め、教会通いが始まりました。そしてやがて牧師山中笑先生により洗礼を受け、基督の弟子の一人に加へられました。私と姉喜久は明治35年19025月18日の聖日に小児洗礼を授けられ、この時以後私は同教会の日曜学校で大いに学び、私共は皆同じく神の子であり兄弟であり、何の心配もなく世の中に住まわせて戴いている事、互いに愛愛するのは勿論、敵をも暖かい心を持って接すべきである事を教えられました。ずっと後この日比忠子先生から、青山女学院というミツシヨンスクールの事をしらされ、大正2年(1913)この学校に入学、私の一生の方向がきめられたわけです。八年間の学生生活が終り、社会に出て、以後台湾に参り、今日に至っております。私の生涯もやはり幼き折に山室先生の路傍伝道に出会った事が、その後の私の人生に大変な影響を与へた事を知り、神の導きの不思議さにおどろいている次第です。 

その後の父の信仰生活は最後に至りますまで続けられました。七十歳を越えてから、逗子桜山に在る徳川家達公の別荘監理を仰せつかり、逗子に住居をさだめました。東京を離れても、日曜毎にあの遠い逗子駅から、一時間十分をかけて東京駅に、それより市電で神楽坂下で下車、それから坂をテクテクと歩き、袋町教会に出席しておりました。他人の眼から見たら、父の行動は何と物好きな事よと思はれた事でせう。然し父にとっては、教会に出席する事は、信徒の大切な務めであり、それを実行しないのはでもクリスチヤン とののしりを受ける、教会出席は自分にとって神に近ずく事、愉快である事、自由である事、この上ない恵みであるといい、雨の日も寒い日も変わる事なく、遠い所から出席していました。

父の信仰は古武士的な風格を認める事が出来ます。この父から受けた信仰の賜物は何物にもかへがたく、今も尚大切に持ち続けております。

貞 1984年9月23日 日曜日に記す

 

後記、この10月20日、満86歳を迎える岳母が、私の求めに応じ、父の信仰 について書いてくださいました。感謝の外、ございません。賴永祥