堀田久子 台湾と私の絆

 

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堀田久子 談 《聖書と祈りの会40周年記念誌》 台北 2018年12月 p.10-12 1980年から1985年迄、5年間楽山園で,それから1992年7月まで聖書と祈りの会及び玉蘭莊での奉仕。。 

都丸正夫牧師より、7月15日付のお手紙を頂き、「聖書と祈りの会」を今年(2018) 12月末をもって閉会するとのお知らせを頂きました。
丁度10月で、40周年を迎え、鄭連徳牧師とも合意の上で、現状をも考慮されての決断であっと事を知り、今日まで牧師先生達のお働きに対して、心から感謝申し上げる次第です。お二人共に、牧会、伝道の重責を負いながら、長い間ほんとうに御苦労さまでした。
私は、1992年7月の退任以来、都丸牧師に26年の長きにわたり、重荷を負わせてしまい、何のお手伝いもできなかった事を、申し訳なく思っております。
その間、ずっと有志の方々から、手紙や電話を頂き、会の様子や会員の方々の近況は、つぶさに知らされておりました。
今この紙面をお借りして、改めて深くお礼申し上げます。ありがとうございました。神様の適切なご配慮の賜物であったと思います。
初めての台湾への旅
1961年日本プロテスタントの諸教会の牧師、伝道師の有志による「戦争謝罪の旅」の募集があって、私は二人の婦人伝道師と共に7月の暑い台湾の地を始めて訪れました。この頃は、航路もなく、貨物船で宇部港より基隆港への苦しいつらい旅でありました。
私の受けた学校教育では、日本の歴史を学んだ限り、真実な歴史を学ぶ機会はありませんでした。スウェーデンの宣教師による、「世界キリスト教会史」の授業の中で、始めて日本の国の真実な歴史を学ぶ事ができたのでした。
敗戦までの近代史においては、特に近隣のアジアの国々への侵略の歴史であった事を知らされた時、大きな衝撃を受けた事は、今でも銘記しております。その時以来私の内に芽生えた願いは消す事のできないものとなりました。いつかアジアの国に仕える者として出て行きたいと願うようになりました。
この台湾への旅を通して、人々の生活や、彼等との親しい交わりの中で、つぶさにその真情に触れ、良きにつけ悪しきにつけ、日本が50年間の統治の中で残した足跡を見る事ができたのでした。
この時、台湾に嫁した日本婦人達の幾つかの家庭集会にも出席し、お話をさせて頂き、又彼女達の御苦労やご家族との生活をも知る機会が与えられました。そして私の内に大きな希望がいつしか芽生えて来たのでした。
宣教師として台湾へ
帰国後、宣教師として台湾への準備を始めましたが、ビザの取得が第一の困難となり、容易に実現しそうではありませんでした。
その間、働きながら幼児教育、障害児教育などの学びを続け、準備の時を過ごしながら待機しておりました。時には、自分の内に去来する不信仰によって、内に燃えていた希望の火が小さくなり消えてしまいそうになる事が幾度もありました。御旨でないのなら他の道を進んだらどうか等と考える事もありました。
しかし、前回訪問した時に、お世話になった台北在住の一信徒の方から、久し振りにお便りを頂き、この一通の手紙が、渡台実現への端緒となって、道が開かれたのでした。
手紙の主旨は、台北の八里にある元ハンセン氏病のコロニーの敷地内に開設された「障害児教養所」が、教師を必要として、古くから交流のあった「日本キリスト教海外医療協力会」(JOCS)へその旨要請されたのでした。このニュースを知った友人が、私の存在を、友人を介してJOCSに伝え、その結果東京の本部より、面接に来るようにとの手紙を受け取ったのでした。
私は履歴書や卒業証明書などの必要書類を持って行きました。早速その場で、先ず働く場を実際に見て、その上で働く意思があるかどうかを決めるようにとの事、一週間「楽山園」の現場でその働きを体験させて頂きました。そして医療教育の名目のもと派遣される事になったのでした。
実に第一回の訪問より24年もの待機の間を経て、実現した旅でありました。私の従妹は、空港まで送ってくれましたが、数日後手紙で次のような思いを知らせてくれました。
「チャーコ(小さい時からの呼び名)が、もう中年になっても、異国の地に希望をもって出かけて行く後姿を見送りながら、私もがんばろうと思った。そして、私もキリスト信者になりたい。中野の近くの教会を紹介して欲しい。」と。
今彼女も老齢ながら、あれから教会生活を始め、ずっと今日まで信仰生活を送っています。
こうして1980年から1985年迄、5年間楽山園での奉仕の時を与えられ、日本から学びの期間を終えて帰った主���教師を迎えて、私は楽山園での働きを終えて帰国する事を決めておりました。
その頃、丁度「聖書と祈りの会」よりお招きがあって、お話をすることになり��出かけて行った折に、会のために、続けて台北で働いて欲しいとの旨要請を頂きました。
この要請は、私が第一回台湾訪問の時より内に抱いた願いであり働きでもあったのでした。唯派遣される団体と派遣する団体が、ビザの申請には必要ですので、その道が開かれるのを祈りつつ、一応承諾して帰国しました。そして、神は祈りに答えて下さり、台湾長老教会と日本基督教団のルートで、台湾の宣教と奉仕への道を開いて下さったのでした。実に長い道程ではありましたが、主はその小さな願いを実現させて下さったのでした。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」ピリピ二章一三節。
聖書と祈りの会
この集いは、主として、日本語で教育を受けた台湾の婦人と台湾人と結婚した日本婦人達の日本語による聖書を学ぶ集いであり、少数の台湾の男子の方も出席されておりました。
私が着任した当初は、東門教会を牧会されていた鄭連德牧師がこの会を指導されており、先生は20人近くの婦人達によるコーラスの指導もなさって、毎週讃美を集会の始めに、コーラスの人々によって聞かせて下さいました。
集会の他に、ピクニック、お食事会、陽明山での研集会、日本教会との交流会等、思い出に残る行事もありました。
集まれる方々は、遠くからバスや電車を利用される人もありました。7年間の私の在任中は、皆さんが殆んどお一人で通って来られた方々でした。
信仰を告白して、病床で洗礼を受け、召された友もありました。数少ない日本婦人達も、救いにあずかり、御国に帰られました。
各々の台湾の教会で、すでに信仰をもって奉仕されておられた婦人達の奉仕と協力が、この会の大きな力であった事も、忘れられない思い出であります。家庭訪問の折に、いつも感じさせられる事は、異国の地に在る事を、感じない程のおもてなし、交わりでありました。
今も記憶に鮮やかなのは、台湾からの電話でした。会員であったAさんの御主人が台北から私の住んでいる日本の南足柄に、20数年ぶりの電話でした。「妻が先生とお話したいと申しますので…」と、決して長い会話ではありませんでしたが、ほんとうに懐かしい声で、嬉しそうにお話してくださいました。その後間もなく彼女が召された事を知らされて、何んと言い表して良いか悲しみと親しみが心に残るお分かれでもありました。この一つの例を通しても、私にとって台湾の方々が同国人よりも、むしろ親しく身近かに感じる事は、今もなお消し去る事のできない事実であります。又少数の日本婦人達が、異国の地に嫁し、言語、習慣の異なる生活の中で、戦争の災難のみならず、動乱の続いた台湾の地で相遇した数々の苦難に耐えて、生きて来られた事を思い、何んとも言い難き、又悲哀と共に、自らの力のなさを痛感させられます。
特に、キリスト者として、アジアの国々への負い目を、いつまでも決して忘れてはならないと思うのです。
神が導いて下さった私と台湾との絆は、私の人生に、大きな方向転換を与えて、決して断ち切る事のできない絆となりました。
私も今日、後期高齢者の仲間入りをして、真近かに神様が御国へと召して下さる日が、近づいているのを覚えながら、日々を過ごしております。天の故郷に帰る日に、皆さんとお会いできる日を楽しみに歩んでまいります。
先ず神の国と神の義を求めよ。(マタイ六‧三三)  

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