李登輝夫妻のキリスト教入信について

 

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 楊劉秀華 楊基銓中心網站 楊媽媽專欄 2009年9月17日 。[漢譯]

吉田勝次先生へ

吉田勝次先生(元兵庫県立大学環境人間学部教授)の著書《自由の苦い味》(2005年日本評論社刊行)で、李登輝夫妻のキリスト教入信について、亡夫楊基銓と私が嘘を言っているとの談話記述(p.376-377)に対し、誤解を避けるために、真実の成り行きを発表する必要を感じました。

李登輝夫妻の信仰(キリスト教入信)について、私の知っている経緯をもう一度記憶をたどって思い返してみたいと思います。彼らがキリスト教の信者になったことについて、私たち夫婦と関係があるかどうかは決して重要なことではないと、日頃思っていたので、李さんがどう言うかということは、別に気にもしていませんでした。しかし、私は、金も地位もなく取るに足りない吃食のような一人の人間を神の前に導くのと、最高地位を持つ君王や総統などを神のみ前にお導きするのとは、神様の目から見ればまったく同じでなんら差別のないことだ、と固く信じております。李さん夫妻のお供をして教会聚会所までお連れし、バステスマ (洗礼)を受けていただいたのは事実ですが、それを誇りに思う気持ちは毛頭ございません。吃食であれ、総統であれ、人間としての魂は全く同じだからです。 人が救われるのは神のみ業、聖霊のお導きによるものであり、人間にはいささかの勲もございません。

私はクリスチャンの家庭に生まれ育った者で、幼少より長老教会、日本では無教会,戦後はアセンブリ教会(神召会)と遍歷を重ね、1958年に神のお導きで 教会聚会所に入りました。日本の無教会と中国の教会聚会所の共通点は、教派を否定し、教会に対する認識が一致していることです。つまり教会の「エクレシ ヤ」という言葉はあくまでも霊的な団体を意味し、組織ではなく、建築物でもない、つまり社会的な団体を意味するのではないのです。エクレシヤとは聖霊に よって召された会衆という意味です。そして、私は聚会所で多くの真理と聖霊による学課を学びました。無教会の內村鑑三先生と中囯の倪柝聲兄弟(ウオッチマ ン・ニー)はこの時代において神に選ばれた霊的な器です。このお二人のすばらしい神の僕について学ぶことができた私は、本当に幸せでした。內村鑑三先生の お弟子さんである塚本虎二、藤井武、黒崎幸吉、石原兵永、政池仁、矢内原忠雄などの緒先生方の純粹な信仰、真理を命がけで守り通し、絕対に妥協をしないそ の真剣な信仰は実に尊く、その教えが私の一生にどれだけ影響してきたか、思う度に有難くて淚が出てきます。それなのに「矢内原先生のキリスト教は頭でっか ちでスピリチュアルでないという疑問をもち、矢内原先生から離れました。」との記述は、全くあり得ないことです。私は昭和14年から16年まで矢内原先生の月一回のYMCAの聖書研究会、週一回の土曜学校に参加させていただき、毎年夏に行われる山中湖での講習会にも二回参加しました が、先生の教えはいつまでも私の心の糧として支えとなっております。今でも矢内原先生のところで一緒に聖書を学んだ方たちと交わりを続けております。(因みに、私の出身大学はご著書に書かれてある「東京女子大学」ではなく、「日本女子大学」です。また、「ウオッチマン・リー」ではなく、「ウオッチマン・ ニー」です。)

1960年頃、私は教会聚会所の福音聚会で日本語の通訳を務めましたが、その時思いがけず三人の日本の婦人が救われました、そのうちの二人は戦後大陸で中 国の兵隊と結婚して台湾に移住して来た方たちで、もう一人は台湾人と結婚した日本女性でした。彼女たちがバプテスマを受けた後、私はふと思ったのです。彼 女たちが、故鄉を離れて異鄉で生きるというのは、どんなにか淋しく辛いことだろう。せめて、私の家を自分の身內、或いは里と思って一週に一度交り、お互い に温めあうことができれば、とお誘いしたところ、とても喜んでくださってその週から集まることになったのが、自宅での日本語集会を始めるきっかけでした。 その時、ちょうどウオッチマン・ニーの著書「キリスト者の標準」の日本語版が出ましたので、教文館から三十冊取り寄せてみんなで講読する読書会になってし まったのです。それから人数が増えて二十数名になりました。ちょうどその頃、李さんの奧さんの曾文惠さんが突然一人でこの集会に来られました。後で私の主人楊基銓から聞いたのですが、ある日李さんが主人と同じ職場、農復会で「自分のワイフの母親が『がん』で亡くなり、彼女は精神的な打撃ばかりでなく肉体的 にも弱って神経質になり、毎日何かにつけては自分も『がん』ではないかと戦々兢々として食欲もなく、夜も眠れない。この状態ではノイローゼになって、しま いには精神病になってしまうかもしれない。」と相談してきたので、主人が「それなら家內が自宅で日本語の集会をしているから、そこへ来られたら。」と勧め たということで、さっそく文惠さんが一人で来られたのです。李さんは楊基銓の台北高校の五年下の同窓で、1951年に共に一年間アメリカへリサーチに行ったので二人は親しかったのです。

そして彼女が来られた時に、私は全然信仰のことには触れずに、ごく自然にみんなと一緒に、「キリスト者の標準」を読み交わり、それから一年ほど過ぎました。ちょうどその頃、教会聚会所でバプテスマ(授洗)の会があったので、文惠さんに伺ってみたところ、彼女が承諾したので、私は受洗談話と受洗集会の二回 ともお伴して、彼女はついにバプステスマを受けてクリスチャンになりました。場所は南京西路の教会聚会所の第四聚会所、授洗者は張貴富という台湾人の伝道 者でした。その時一緒に受洗したのは、張燦堂先生の夫人周綢さんでした。教会聚会所のメンバーは誰も神学校を出ていないので牧師はおらず、皆お互いに兄弟と呼んでいます。文惠さんは身心共に全快して健全な明るいクリスチャンになりました。その後李さんは文 惠さんを見て感じるところがあったのでしょうか、私ども夫婦と共に週に一、二回、円環の李さんのアパートの三階の客間でキリスト教について討論しました。 その時私たちは伝道に自信がなかったので、聚会所の伝道者鄭天福兄弟を連れて行きました。彼は師範大学出身で日本語、台湾語、中国語が話せました。当時私 たちは三輪車で、彼は自転車でアパートまで行ったと記憶しています。もちろん鄭兄弟はその後度々個人で李さんを訪れたと思いますが、李さんが「ある牧師に 強く言われてキリスト教を信じた」と言っているのは、多分彼のことでしよう。なぜ李さんがはっきりと鄭兄弟の名前を言わないのか、不思議です。神を信じる ことはこの上ない恵みで大いに喜ばいしことなので、誰に導かれたのであってもかまわないと私は思うのですが、どうしてそんなに気にして腹を立てるのか、私 には不可解でなりません。むしろクリスチャンになったことを感謝すべきではありませんか。もちろん、吉田先生はご好意で本にそのことを書かれたのだと思い ますが、読者は白紙状態で立場はまちまちなのですから、読者の反応を考慮すべきだと思います。それは私たちの夫婦の人格と名誉に関わることなので、必ず訂 正処理していただきたいと思います。

私が嘘をついているというのは、重大な侮辱です。李さんこそが、嘘をついていることを反省しなければなりません。この間お電話差し上げた時に、吉田先生は 「李さんは大変立腹されたようですが、あなたたちのいうことが正確だと思います。」とおっしゃって下さったので、実のところほっとしたのです。李さんが 「歩いて歩いてたどりついたのが聚会所でした。楊さんの奧さんとは直接関係はありません。自分で行ったのです。楊さんや奧さんが私の関連でというのは全部 うそです。おかしな話です…」との言葉に、李さんも吉田先生も責任を持って欲しいと思います。軽々しく人を嘘つきだと言うのは侮辱の最たるもので、きわめ て重大なことです。明白な証拠がない限り、むやみに他人を嘘つきだと決めつけることは、その人自身の人格に関わると思います。これは教養ある人の常識では ありません。

さらに、2000年11月1日に遠流社出版《亜洲的智略》(李登輝・中嶋嶺雄著)、p.173に「私がちょうど65才の年に副総統の座から総統の座を継承して以来、12年が過ぎた。この5月20日に総統の職務を下りたあかつきには、年来の念願であった山地の布教伝道活動にとりかかることができる。」とあります。李さんが総統の任務を離れてもう何年にもなりますが、「離任後は山地の布教伝道を」という「約束」はどうなったのでしょう。李さんが他人を「嘘つき」という資格が、どこにあるのでしょうか。

李さんはなぜ、自分の入信は私たちとは直接関係はない、自分で行ったのだ、ということを再三強調するのでしょうか。重ねて申しますが、私どもは李さんの入信を自分の「手柄」だなどとは思ったこともありません。李さんの入信はひとえに神様のなし得たみ業であり、決して人間の「手柄」などではあり得ません。それを、あたかも私どもが手柄顔をしているかのように描き出すこと、これこそ神に対する冒涜であり、この点でも李さんはクリスチャンとして反省すべきではないでしょうか。

以上の理由から、ご著書の該当箇所を必ずきちんと訂正処理してくださることを要求いたします。もちろん、このままで英語版を出版することなどは、もってのほかです。

私たちが李さんを教会聚会所に連れて行ったのは、思えば二度ありました。第一回目は第一聚会所(以前は仁愛路、現在は金山南路)で彼がバプテスマを受けた 時でした。当時、頼永祥教授(ハーバード大学燕京図書館副館長)の夫人劉慶理さんが受浸聚会に奉仕していましたが、彼女は李さんの受洗のことを今でもよく 覚えていると言っています。もう一回は李常受兄弟がアメリカから帰った時に一緒に彼のメッセージを聞きに行った時でした。その時の李さんの感想は、「あの 李という人は壇上に上ると、普段と違った不自然な声で話すからいやだ。」と言ったのを覚えています。お互いに健忘症でありませんように!            楊劉秀華

 

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