1111によせる永遠と一瞬への随想


デイビッド・ルー (David Lu 盧焜熙)2011年11月11日


2011年11月11日11時02分にこの稿を書き始めた。上から読んでも下から読んでも同じ数字となるこの一刻は、我らの一生にも、永遠という時間帯にも二度と来ない。こういう時に諸兄とこのような形で語り合えるのは無上の幸せ。まず木藤先生はじめ諸兄とご家族のご健勝を祈りたい。本日快晴、気温は8度、いちじくの葉は、二度降りた霜にあたって無残な形となっているが、9月に植えた菊は今でも色鮮やかに庭を飾ってくれている。

先週の土曜日(11月5日)、米寿を迎えてほどない義理の姉 (賴劉慶理)が亡くなった。今朝も起きるとやはり彼女の追想で胸が一杯になってしまう。姉の一生はキリストの愛と信仰によって支えられていた一生だった.死別が残されたものにとって、どれだけ苦痛だとしても、永遠の命を信じることは大きな慰めとなる。それについて木内信胤さん(1899―1993)とのやり取りを思い出した。

岩崎弥太郎のお孫さんとして生まれた木内さんは、幼い時東郷元帥の膝に乗せられた経験を持っていたとか、戦前二人の首相を叔父として持っていた、毛並のいい方だった。戦後は吉田、池田、佐藤などの名宰相の経済ブレーンとして活躍し、その一方でノーベル経済賞受賞者のハイヤク博士と文通をしたり、フリードマン博士の向うをはって、論陣を展開したりなどしていた。

私が彼の知遇を得たのは、内外ニュース社の創業者社長が亡くなり、木内さんが会長として同社の経営に従事するようになったのが始まりで、日本に来るたびに必ず、編集会議に招かれた。聞き耳に優れた方で、要点をよく捉え、てきぱきと決断される名会長だった。当初は先生、先生と接していたのが、何時の間にか木内さんに変わったのは、彼が主事していたもう一つの組織、世界経済調査会では、すべての職員が親しみをもって彼を木内さんと呼び、彼もそれを好んでいたことを教えられたからで、畏敬の念に変わりはもちろんなかった。長く父を亡くしていた私にとって、彼はかわりの父として親しめるような存在でもあった。

相談したいことがある、というのである日彼を都内のホテルに訪ねた。人払いをしたあと、「亡くなった息子の遺言でずいぶんなやんでいるので、同じクリスチャンである、あなたと話したかった」といって私の手を握られた。この明治生まれの謹厳な紳士の目には涙があふれていた。私たちと同年輩のご令息は数年前55歳の若さで、癌で亡くなった。その遺言は「お父さん必ずクリスチャンになって下さい。永遠の命があることを信じて下さい。そうしたらかならず天国でまたあえますから」というものだった。しかし、それは木内さんにとって、不可能に近い要望だった。彼は当時全国仏教懇談会の副会長。かれがクリスチャンになることは背信行為としてとらえられても仕方がないものだった。

「それで家内とこういう結論に達した。葬式は残されたものの宗教に従う」と彼は続けた。多代夫人(福沢諭吉の孫娘)はクリスチャンだから、彼が先立てば、彼はクリスチャンとして葬られる。その反面夫人が先立てば、不本意に仏教徒として葬られることとなる。私は「それなら、申し訳ありませんが先生に先に死んでいただけなければなりません」と答えた。仏教には輪廻という思想があるが、キススト教には永遠の命という信仰がある。「イエスの教えを信じて下さい」とその日はそれで別れ、関西に赴いた。それが生別になるとは知らなかったが、新幹線の車中では無性に寂しくなってしまった。

それから何年たったかは覚えていない。木内さんの秘書をしていた方から木内さんが亡くなる前に洗礼を受けたことを聞いた。「クリスチャンとして葬られるなら、それ相応に洗礼を受けなければ」と、いかにも木内さんらしい実直な発想にもとづいていた。「でもキリスト教の教義をご存じない方には」と牧師さんは否定的だった。「それなら、I know that my redeemer liveth」と救世主などの歌詞をすらすらと引用して,贖罪の教義を説明し、ヘンデルだけではなく、メンデルソンのエリヤをも、イザヤ書をも引用したので、牧師さんも折れて直ちに洗礼に同意したという。宗教音楽研究会合唱団で活躍していた彼の面目がそこに躍如としてでてくる。聖歌だけではなしに、木内さんは若いときにもいろいろとキリスト教に接触する機会があった。木内さんの一高野球部が早稲田慶応を制覇した時の名投手内村祐之は内村鑑三の長男だった。

姉の他界ということがなければ、上のようなことは一切書かなかった。今日何が起こったかを語るのに、念頭にあるのはそれだけなので、これは今日の真実な記録となる。あるいは天で姉が木内さんに巡り合って、私はこうこういうものです、と自己紹介をして話が私のことに及ぶかもしれないと想像してみた。すっかり和やかな気持ちになってしまう。永遠の命はそのような喜びを湛えている。

三年前妻が癌の手術を受けて以来家事の切り盛りは一切私がするようになった。三度の食事は勿論、庭の手入れも、家の掃除も、そして娘の飼い犬を歩かせるのも日課に入っている。私が現役で外でバタバタしていた時、妻はこのすべてをこなし、4人の子を育て、文句ひとつ言わなかった。それと比べると私のしているのはたいしたことではなく、却って妻への感謝の気持を持つ。

筆を置く前にただ一つ。311と911は災害の日だが、1111は第一次大戦の終戦を祝う平和記念日である。

やがてクリスマスと新年が来る。皆さんおめでとう。この機会を作ってくださった羽深、西村の両兄に深甚な謝意を表したい。


木内 信胤(Kiuchi Nobutane、1899年7月30日 - 1993年12月5日)は、日本の経済評論家。父・重四郎は內務官僚で、 母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。