『アメリカ 自由と変革の軌跡 建国からオバマ大統領誕生まで』あとがき


デイビッド・ルー (David John Lu, 1928- )『アメリカ 自由と変革の軌跡 建国からオバマ大統領誕生まで』

日本経済新聞出版社  2009年1月 467-470頁。


ここで、アメリカの歴史を日本語で書く執筆することとなった経緯を説明させていただきたい。私は昭和3年、台湾に生まれ、旧制台北高校尋常科をへて、文科在学中終戦となった。後に『連歌史論考』で学士院賞を受賞された木藤才蔵先生に国語を教わり、犬養孝先生の下で万葉集を朗詠するという恵まれた環境にあって、一時は国文学を志したことがある。その尋常科の同級生の間で「真洞会」という同窓会があり、2004年の夏、カナダのロッキーズで会合を開いた。虞美人草の花咲く庭から、翡翠のような色をした湖に映る、雪が山頂から消え去らない山岳を眺め、楽しい3日間を過ごした。同級生の大多数は勿論日本籍だが、台湾籍もいれば、カナダ籍もおり、私はアメリカ籍だった。お互いに実業、学界の第一線から引退してから何度目かの集いとなった。

話題となったのは青春の思い出だけでなく、日本や台湾の将来、その安全保障にアメリカがどう動くというものだった。「アメリカという国は、知っているようで、案外知らない。つかみにくい国だ」というのが、ある級友のコンメントだった、その旅から帰り、私はこの本の執筆を決意した。  

幸い手もとにはアメリカ建国200年を記念して出版した、日本語で書いた自著『パイオニアの築いた偉大な社会』があったので、それを種本に使った。しかし、自著でありながら、読み返すとしっくりとこない所がかなりあった。「歴史はその書かれた時代を反映する」というのは、中国制度史研究で著名なエテイアン・バラーズ教授の言葉だ。三〇年もたつと社会環境も私自身の考え方も変っていた。それで増補と言うよりも、第一章からの書き直すことにした。  

私は1976年、1980年に下院議員の選挙に出馬した。二度とも敗れたが、そこで貴重な経験を得た。「選挙民は聡明だ」という印象は今でも身に染みて感じる。義務教育しか受けていない人たちでも自分の利益を良くわきまえていて、自己主張し、政府への要望をはっきりと教えてくれた。ペンシルバニア州中央部にあった私の選挙区では田舎町、農村が多く、東洋人に一度もあったことのない人もかなりいた。そのような素朴な人たちも、意気投合すると投票を約束するだけでなく、選挙の手助けをもしてくれた。人種的偏見のない、包容力に満ちた、アメリカの国民性をその時体験した。このような経験がこの本を実態に即した本に育てあげてくれた。自分の体験を生かして、州知事の再選に内部から関わったり、議会証言を行ったりすると、自然に歴史、政治を見る目も変っていった。

アメリカの歴史の資料は驚くほど多い。まだ若手の歴史学準教授だったころ、主任教授ビル・ハーボーが「アメリカの史学者は一人の大統領について、君たちが一時代、一王朝について知っていることよりも、もっと多くのことをよく知っている」と語った言葉が忘れられない。ビル本人は、セオドア・ローズベルトについて複数の名著を出し、いまでも同大統領研究に没頭している。一般に大統領は、退任すると記念図書館の創立に忙しくなる。それが完成すると多くの学者が集まり、その大統領時代をあらゆる角度から分析し研究する。そして厖大な関係文書が出版される。一人の学者が一人の大統領時代に絞って一生を捧げて研究しても、研究し尽せないほどだ。 それを知りつつ、アメリカ史の専門家でもない私がアメリカ通史を書こうとするのはあつかましい行為に思える。その反面、専門家ではない利点もあった。小にとらわれて大を見過ごすことはないし、日本人読者の求めるトピックを見つけ、解説できるという自信をもっていた。

34年間、私はペンシルバニア州中央部のバックネル大学で教鞭をとった。ペリーの旗艦にその名を与えたサスクヮハナ河畔のルイスバーグという小さい町に所在し、近くには、最初の和英辞書を編纂したヘボン博士の生家がある。その環境の下で、私は日本の歴史、企業の講座をもち、日本語の教育課程を開設し、日本の紹介に励んだ。同大学の卒業生に日本IBMの社長、会長を勤められた椎名武雄さんがいる。椎名さんは桜並木、柔道部道場の畳などを備え、日本に親しめる雰囲気を母校に作り、同時に母校を媒介として日本人がアメリカのよさを実地で体験出来ることに力を尽くされた。IBMはアメリカ在住の日本企業のトップ夫婦をバックネルに招き、アメリカを紹介する夏期ゼミを3度行った。ホストを任された私には、そのことがとても勉強になった。同志社大学には一年半ほどお世話になった。そのうち一年間はAKP留学生センターの所長としてで、ホームステイの父として母として、私の学生の面倒を見て下さった方々の顔がよく目に浮ぶ。アメリカとは何か、日米文化の違いは、などの問題は学生にとっても、父母にとっても、日常生活に関わる問題だった。

東京の内外ニュース社が出している週刊『世界と日本』の創刊以来36年間。アメリカに関する時事評論を時々寄せている。同社清宮龍会長の招きで、北海道から九州を巡り講演し、各界の方々と交流をする機会をもった。前著は同社の故長谷川才次初代社長のお勧めで出版したものだ。「日本人はアメリカをどう見ているのか、アメリカ側の見方はどうか」という視点がこの本を書くのに役立った。  

本は著者一人の作品ではない。「真洞会」の羽深人成兄は草稿の全文を読んでくださった。2006年春、畏友廣瀬秀雄元東洋証券会長のお取り成しで、アメリカ訪問中の証券界OBと懇談、未定稿の一部を読んでもらった。その方々からのご批判は何らかの形でこの本に反映されている。  

この本を出版するにあたり、國際文化会館の加藤幹雄さんのお世話になった。ご当人は國際文化会館の歴史を書いていて、大変お忙しいのに出版社との交渉などを快く引き受けて下さった。同館の佐治泰夫さんにもその件で大変ご足労いただいた。國際文化会館は、私にとって、日本を訪問する時の「ホーム・アウエイ・フロム・ホーム」で、文化交流のために努力を惜しまない同会館と加藤さん、佐治さんの貢献をここに記しておきたい。日経出版社の堀口裕介氏、スタジオ・フォンテの赤羽高樹氏には、原稿の内容その他いろいろアドバイスをいただいた。校正の過程で、関係者の歴史書に対する熱意に打たれ、良き協力者を得たとの感を深くした。お世話になった方々に心から厚くお礼を申し上げたい 。

私が始めてアメリカ本土の土を踏んだのは1950年9月22日、ゴルデン・ゲート・ブリッジをみながら、「太平洋を繋ぐ橋になりたい」という新渡戸稲造先生の言葉に思いを馳せた。新渡戸先生の時代のアメリカは、日本にとって、距離的、心理的に遠い国だった。その両国は今、近い国となっている。この小著が日本人とアメリカ人の心の触れあいを進めることができる架け橋となり、とくに若い人たちが若き日の新渡戸先生の情熱を感じとることができる一助となれば、というのが青春時代までは日本籍だった著者の願いである。

 2008年12月