蔡仁理 私のLife Story 私の日本語人生

 

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蔡仁理談 《玉蘭莊通訊》247期 2018年11月1日 原題「奇しき神の摂理」より跋粋.  

ある教会の日本語聖書研究会で、求道者のひとりがこのような質問をなさいました。
「仏教では人生の出会いを縁、縁故、あるいは運命、宿命、奇遇、と言うが、キリスト教はこのような係わり合いを日本語でなんと言いますか?」と聞かれました。突然でしたので一寸迷いましたが、神の摂理という言葉が私の心の中にひらめき、「キリスト教では万能の愛の神様を信じておりまして、愛なる神様が凡てを知らしめしているので、凡てが良きことに成ると信じる摂理が私を導いて下さいます。」即ち、凡てを良しとされる神のご計画を、縁とか運命、宿命、偶然とは信じません。使徒パウロは、「ローマの信徒への手紙」第8章28節で「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者達には、万事が益となるように、共に働くと言う事を私たちは知っています。」と書かれています。神様は、あらかじめ私達の人生の凡ての係わり合いが益に成るようお導きに成る事を信じて生きています。ですから、私と玉蘭荘との係わりも、ただの出会いではなく神様が私を導いて下さったのです。只の縁、縁故にて皆さんとの係わりがあったのでは無く、神様の摂理に基づく事を信じています。神の私に対する恵みのご計画の結果なのです。
私はかつて日本の植民地であった台湾東部の田舎町池上で1931年(昭和6年)に生まれました。終戦(1945年)までの15年間同化政策に沿って日本語と日本式教育を受け、今日いまだ生存している所謂日本語世代と呼ばれる残留者です。ですから私が正式に日本語を学習する時間はたったの15年間でしかなかったのです。即ち公学校6年間と中学校3年間を終えるまでだけでした。私の青少年時代は正に戦乱時代でした。1931年9月18日満州事変に始まり、1937年盧溝橋事件(中日戦争)から1941年太平洋戦争(第2次世界大戦)に突入。1945年8月日本敗戦、と毎日不安な時期に教育を受けました。戦争直後突然中国人に改められ、皆目なかった北京語の教育、そして1949年の戒厳令に依る「日本語禁止令」で日本語からの疎遠を強要されました。それが今日70年後に八十路も暮れに達する私が、また日本語を用いることが出来るようになり、こうしてペンを走らせているとは、一寸自分が信じられない事実だと思います。それには希しくも神のご摂理により、私の人生を貫く日本語に頼る機会を多く与えられたのであると固く信じています
公学校四年の時、西部の公学校に転校、そして「国語家庭」として認められた叔母の家でみっちり日本語を話すことを教えられました。難しかった州立中学にも入学、学生がほとんど日本人という二年半の学寮生活で、日本式生活訓練を受けました。学寮生活では、上級生にクリスチャンであり、バイブルを持っていた事が見つかってひどい目に殴られ、歯茎から血が出るほどに叩かれたのも忘れ難い印象でした。終戦、その後は一切日本語教育が途切れたと言えましょう。1949年に高等学校卒業、青年時代に決心した神学校へ入学しましたら教授は宣教師数人と日本帰りの四、五人の先生ばかりで、ローマ字による台湾語の訓練、日本語、英語混ぜこぜの講義でした。そして上級生には三人も日本語の上手な学生がおりました。鄭連德さん、黃西川さん、葉保進さん(タロコ族第一代牧師)、それぞれみんな台湾教会の牧師になりましたが、私達の平常の会話はほとんど日本語で交わされました。お蔭で私の日本語の使用が復活したと言えましょう。折りも折り、戦後台湾教会山地伝道の開始期、そこでは日本語でしか通じないので、一年半ばかりのウライ村落の開拓伝道に派遣されて、日本語で伝道を致しました。1956年から1957年、奨学金が与えられて、私はアメリカへ一年間の交換留学の機会を得、アメリカの神学校へ行きましたら、そこでまた唯一のアジアからの学生、日本大阪扇町教会の副牧師の辻中昭一氏(同志社大学神学部卒)との出会いで色々とお世話に成り、終生の友として交わりました。彼はエール大学神学校から学位を取り、後で扇町教会で牧会し一昨年亡くなりましたが、台湾へは六、七度来られまして、蘭嶼島のヤミ語聖書発行の感謝礼拝式へお連れした事がありました。辻中先生を通じ河野友美教授と言う「聖書と食品」の研究家で、日本のテレビプログラムで有名な先生を紹介され、私が台北へ招聘いたしました。8回ほど連続訪台され「互談会」主催の講演をキリスト教病院、YMCA教会各地でなさり、大変な好評を受けました。
1965年、マニラでの第1回アジアキリスト教青年大会準備委員会にて日本の国際基督教大学(ICU)の教授、古屋安雄氏と顔合わせの機会が有りました。15年後、家の長男が台湾の大学の卒業直後日本留学の件で電話を致しましたら、直ちに入学手続き、入管の件一切を引き受けて下さいました。数年後、大変不思議に思われますが、長男が日本電気(NEC)に入社をした数日後、ロンドンの出張帰りの私が東京に寄った時、長男の上司が私の新竹中学生時代のクラスメートだった事を知ったのです。逢った時名前は覚えて無くあだ名しか覚えていなかったものの、顔を覚えてくれていたのです。45年間全然連絡もとっていなかった友達とかかる事態でまた会うとは、私は神様の摂理と信じています。長男が本当にお世話になっておりました。
1972年の日本聖書協会百周年には多くの祝行事がありました。招かれた日本のお客さん、牧師達の通訳の務めを命じられました。本田弘慈先生(有名な大衆福音者)の四日間に渡る台北市クルセード伝道、北森嘉蔵先生(神の痛みの神学)の講座等が難しかったのですが何とか通訳の奉仕が出来ました。本田先生は私の通訳が情熱があって印象的だったと、私が欲しかった広辞苑辞典を日本から記念に送ってくださいました。
聖書協会(UBS)の職務を20年近く司ってからは、各国の委員会、理事会そして殊にアジア太平洋地域の総幹事の職務に選ばれ、国外旅行の数も増え、日本へ行く機会もよく有りました。役得と言うか各国の多くの教会指導者に会う事が出来、殊に日本の先生達には公務以外では日本語で交わりを愉しませて頂きました。日本の聖書関係の指導者、総主事との交わり、岸千年先生(日本ルーテル神学大学院長)、大宮博先生(日本聖書協会理事長)、宮内俊三先生(日本聖書協会総主事)、新見宏先生(死海写本研究者)、佐籐邦宏先生(日本基督教団議長)、渡部信先生(日本基督教団総主事)等との新しき交わり、指導を受けました。日本語を更に知る大きなメリットと成りました。
1995年に日本聖書協会大分市聖書展覧会に招かれて参観に行きました時、女流作家で大変有名な曽野綾子先生と同席の食事の誉れを頂きました。お話のついでに私が、「先生の著作を数冊読ませて頂いていますが、小説家は素晴らしく偉いですね。各地を旅行されて小説の題材を集めては数日間で一冊の小説が出来るでしょうから」と言いましたら、先生は「いいえ偉くはないです。神様こそ最も偉大な小説家です。世界で五十億人の一人一人に異なった小説を書いています。それも全く異る性格として書いていますから」とお答えになられました。なるほど神様は、私達の人生を各自全く異なる題材として活かされています。忘れられないお言葉でした。
日本語が出来ることによって、二度三度日本旅行の面白い機会が得られましたことを簡単に並べてみますと、日本アジア福音宣教会の京都の野口先生に招かれ1971年9月から10月に伝道訪問で関東方面十ヵ所ほどの教会を巡りました。
2011年大阪中華長老教会での短期牧会中、京都で開催されたキリスト教医療伝道会三国(日韓台)聨誼会で台湾教会の医療に関して二時間ほどの講演を致しました。スピーカーの紹介役の京都の白石医師は、奇しくも戦中台湾にて四歳の時に幼児洗礼を受けられ、その教会は戦後私が1968年から1973年まで牧会した台北の中山教会でした。(昔の台北日本聖公会、大槻牧師の牧会と建堂)なんと不可思議な取り合わせでしょう。
2014年の復活節前、三度目の短期牧会で大阪へ行きました時に佐藤貴仁さん(数度玉蘭荘訪問者)に呼ばれて早稲田大学日本語教育研究所センターで三十人程の学生と先生に「私の人生を貫く日本語」と題して二時間お話を致しました。良き反応でしたとのちに数人からの手紙がありました。これも縁故と言えば、この日本教育研究所は、私の長男が数年間勉強した学校でした。
最後になりますが、私にとって終生忘れる事の出来ない良き友人三田裕次君との出会い、そしてその係わりが彼の人生と台湾を結ぶ大切な契機であり、神の摂理として感謝に絶えない事となった事をお話しします。三田君が一橋大学経済学部の学生の時、香港へNGOの代表とし参加、私が台湾代表、それが三田君との出会いで、日本語で彼と話せるので親しくなりました。彼が東京へ帰る途中、台湾に五日間寄りたいとの希望でしたので、私の処へ泊まる事になりました。それが切っ掛けで彼は台湾の事を知り、又来たいと言っており、私がなんとかしてあげる事となりました。その後、丸紅商事に就職し、数年後台湾勤務志願で1970年に台北市に来まして、私の住む天母のアパートの三階へ家族と共に住みました。十年間ほどの台北勤務の間、時間を見つけては各地へ旅行、平埔族、台湾の古代史研究をし、古本屋を手当たり次第に廻り古文物文献の収集等で忙しい日々でした。
一度は日本の新聞に台湾文物の収集にかけては個人的に三田君に勝る人なしとの記事が出て、台湾史研究の専門家と言われるほどに成りました。1981年、病いで日本へ帰りましたが、小平市の家が台湾史研究会の中心になり、階下には台湾時代の文物が集められ、また数年間毎月一度、台湾の留学生が東大、一橋大学、お茶の水女子大学からかれこれ十名近く集められ、台湾史の塾を作り、若い世代の台湾史研究者に講義討論の機会を与えて来ました。10年くらいは続けられたのでしょうか。その間、台湾史に関わる古典の古本を集めては台湾の呉三連記念図書館に数多くの書物を送り、政治大学の三田文庫設立、手に入る台湾史関係の書物をたくさん送ってくださいました。
小平市の三田台湾史塾を通じて台湾史研究をされた台湾学者が数人現在台湾の学界で教授、中央研究所で活躍しています。
私の彼との係わり合いがこういう関わりを結ぶことになったことを神様に感謝にたえません。
私が大阪の牧会中に二度広島の本家へ三田君の病中見舞いに行き、楽しくおしゃべりし、昔話に日の暮れるのも忘れて遅くなったことがありました。彼の亡くなる五ヶ月前に広島へ尋ねていろいろお話した時、帰りの新幹線駅まで送ってくれた途中、私の肩を抱えて「先生、台湾語で祈ってください。」と突然言われ、路傍に立ち、台湾語で彼の健康と台湾研究の件でお祈りしましたら大層喜んで涙を流されました。その五ヵ月後、彼は主に召されて世を離れ天国へ参りました。65歳、惜しい人を失ってしまいましたが、日本語を知るようになってこのような素晴らしい人に会え、終生の友として交わることが出来た幸いを神様に感謝致します。
私が15歳までに学んだ日本語のお蔭で、神様の摂理により豊かな祝福された人生の道を歩み、そして玉蘭荘の奉仕を辿ることになったと信じ、感謝で心が満ちます、神の御名を讃美しましょう。
イザヤ書46章3節、4節
三 わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。
四 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。 わたしが担い、背負い、救い出す。  

 

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