思い出 父の戸棚

 

 

劉逸民記 2015年10月5日 台北市士林にて。劉逸民(1930- )は 台南劉青雲(1894-1982)の次男 。

常々倹約を旨としている父ではあったが、たまたま、これは、と思うものに出くわすと、自身のためにも、または家族のためにも気前よく買っていたようだ。    
靴はその最たるもので、ひと頃はかなり凝っていたのではないかと思う。 それというのも、父はスポーツが好きで、同志社、慶応時代を通してまずは身体作りに始まり、ランニング、サッカー、テニスに打ち込み、後にはゴルフに熱中するほど多趣味であったから、その時時の活動に合わせて靴を用意したものと思える。とは言え、そのすべてを履きつぶすというまでには至らず、中には何回か使用したものの、そのまま戸棚の中に置きっ放しのものもあって、以来ずっと出番を待つことになっていたのだ。    
第二次世界大戦も終わりに近いころ、日本は敗色いよいよ濃く、国中で物資が欠乏、台湾でも耐乏生活を強いられた。子ども達は兄弟や知り合いのお下がりを貰ったりして,継ぎ接ぎをした上着やズボンは当たり前だった。運動靴は配給制で、年に一度ぐらいの周期で手に入るのだが、次の順番が回ってくるまではその一足を履き通すことになる。育ち盛りの足指は伸びが早い。どの子の靴も大抵穴が開いていた。穴は親指の先から始まる。初めは少し糸がほつれて破れそうな気配、そのうちにほつれは拡大して穴らしくなってくる。連日、朝早くから日が暮れるまでそれ一足で駆けずり回っているうちにいつの間にか親指が大方穴からはみ出す始末だった。クラスの中には靴がなくて草履で通学する者もいたぐらいだから、大きな穴だろうが何だろうが、靴でさえあれば文句なし。親に泣き言をいうなどは考えてもみなかった。    
ある日のこと、父がわが親指の飛び出た運動靴を目にして、しっかりしたのをあげよう、と戸棚を開いて物色していた。これがいいだろう、と渡してくれたのが、なんと皮製のサッカーシューズ。靴底にスパイクがついている。見るからにしゃれた上等な代物だ! 早速足を入れてみる、これは、だいぶ隙間があるぞ! 歩いてみる、やっぱりぶかぶかだ! だからといって、そんなことは気にしない。何しろ生まれて初めての皮靴なのだ。次の日には喜び勇んで学校へ履いて行った。 案の定、クラス中の注目を浴びて、いい気分でいたのだが、実はスパイクがあるために堅い道路を歩くと、カチカチ音はするは、突っかかって歩きにくいは、で閉口した。いつもの穴開き靴の方が足になじんでよほど快適だということがこれでよく分かったのだが、今さら止めるわけにはいかない、見栄を張って我慢を重ねているうちに程なく靴は自然崩壊してしまった。経年劣化ということだろう。    
これを見た父は、また戸棚を開いて、次にはこれもまた中古のゴルフシューズを出してくれた。見た目も立派な高級品で、中学生の分際で日々通学に使うのはさすがに恥ずかしかった。    
父の戸棚には、大人用、子供用、と運動用具もかなり揃っていた。棚ごとにバスケット、サッカー、ラグビーなどの大型ボールをはじめ、テニスボールとラケット;野球のボールとグローブ、バット;ゴルフボールとクラブセットは大あり小あり;さらにはボクシングのグローブ;ストップウオッチ、スパイクシューズ、果てはダンベルの類まで種種雑多なんでもござれだ。当時15歳ぐらいの少年には夢いっぱいのおもちゃ箱に見えたことだろう。 その中からまずはラグビーボールをひとつ持ち出して、ひとりひたすら蹴りまくっているうちにこれもまた終にはあっけなく壊れてしまった。    
このころ、慶理姉は台南市気象台勤務、改造兄は東京在住、革新兄は台北。備世はまだ幼かった。          
劉逸民 台北市士林にて  2015.10.05